ふうのひとりごと

僕が生きてる証明に

過去のぼく

これからの軌跡を残す前にこれまでの僕のことを書いておこうと思う。

 

僕が自分のクィアネスを自覚した(受け入れた)のは大学2年の10月。遅いよね。

こんなに遅かったのは僕の中のトランスヘイトのせい。社会に蔓延してた/るトランスヘイト言説に十分すぎるほど影響を受けてたから。

 

小学生のときから「女の子らしい」服を着るのは嫌だったし、所属してたサッカー少年団の遠征で1人だけ違う部屋だったのも嫌だった。

でも、僕には「男子」だという確固たるアイデンティティがあるわけではなかった。

バイナリーな社会で生活する上で「女子らしく生きる」以外の選択肢がなかったし、「男子として」生きていける未来があるなんて想像さえできなかった。

 

中学3年生のとき、「性同一性障害」という言葉を知った。そして割り当てられた性別からトランジションして生きていく人がいるということを知った。衝撃だった。そんなことしていいの?そんなことが許されるの?

自分にはできない生き方をしてる人をみて嫉妬した。妬んだ。そしてヘイトに走った。最低だよね。

 

自分はそんな「障害」なんかじゃない。

 

そう自分に言い聞かせてた。

そのまま高校時代を過ごし、大学に進学した。

 

そして大学2年の後期。

友だちの紹介である授業に出会い、僕の中の考えが一変した。割り当てられた性別に違和感を抱くことは「おかしい」ことじゃない。トランス的な自分を受け入れてくれる場所がある。その授業を通して、自分らしく生きてもいいんだって思えた。マジョリティからの承認がなかったとしても生きていっていいんだって。

 

そう思えたけど、やっぱり「自分ってなんだろう」っていう問いは消えなかった。「ボーイッシュ女子」として生きていけないの?僕は「男」になりたいの?

そんな悩みを解消するためにいろんなトランス男性の物語を読んだ。いろんな人の話を聞いた。いろんな物語に触れるほど分からなくなっていった。ロールモデルは見つからない。

僕は「規範的なトランス男性」ではない。

他のトランス男性の物語に100%共感することはできない。

お前は「本物の」トランスじゃない

そう言われることもあった。そのたびに傷つき、自分を見失った。ただ辛かった。

女性としては生きていけない。

でも、トランス男性としても認めてもらえない。はっきりと「男になりたい」って言えない自分にただただ嫌悪感を募らせていった。

 

そんな中、今まで僕を苦しめてきた性的指向が自分をアイデンティファイするヒントになった。僕はゲイ寄りのバイロマンティック(だと思ってる)。そのせいで自分は男にはなれないと思ってた節もあった。(性的指向ジェンダーアイデンティティは別なのに)

でも、『トランス男性による トランスジェンダー男性学』を読んで、よく考えてみて気づいた。僕は「女として」男性に好きになってもらいたいわけではなく、「男として」好きになってもらいたいんだって。

 

マスキュリンなトランス男性にはなれないし、なりたくない。トランス男性の中にも多様性はあるし別に「男らしく」ならなきゃいけないわけじゃない。そう思えるようになった。

 

もちろん社会では理解されないことが多いし、当事者にも理解されない。むしろ当事者から批判されることだって多い。そして自分自身も理解も納得もできない。

でもこれが僕だから。

 

「普通」から逸脱することがとにかく怖かった僕が「普通」じゃない性を自分らしく生きていこうと決めた。

きっとあの授業に出会わなかったら僕は「女性」を演じて苦しみながら生き続けていただろう。僕をその授業に誘ってくれた友だちと先生には感謝してもしきれない。

 

自分のクィアネスを自覚してからもバイナリーな社会のあり方に苦しみ続けてる。

僕は「シス男性になりたい」わけじゃない。

でも、「男性として」生きていきたい。

 

「生きること」に社会の承認は必要ない。

僕を理解してくれない人とは縁を切ればいい。

そう言えるほど強くはないけど、「僕が生きたい僕」を受け入れてくれる人を大事にして生きていきたい。

 

こじらせトランスヘイトのせいできっといろんな人を傷つけてきた。それは許されることじゃない。でも、だからこそこれからは誰かの力になりたい。

 

「自分らしく」ってどんなことなのか正直まだ分からない。

治療を進めていく中できっと後悔もするんだろう。でも僕の人生だから。

過去の自分も引き受けて少しずつ自分を取り戻していきたいな。